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中村 恭子 Edit

錦魚遡上絵巻(仮)
中村 恭子

 自然に為す人の態度には二通りが考えられていた。一つはナチュラの信奉、白の思考だ。これには、純粋・無垢であり、徹底して自然の野性、汚穢にまみれて生きる覚悟が必要である。そのようにして、人間の不完全さと悪、堕落で満ちた現実世界を拒否する。しかし、「知ある無知」のままでは永遠に神の世界に到達して自由になることはできないであろう、呪われた部分がある。

 一方で、人間は小さな宇宙を構成する特別な存在と考えた、アルテの信奉はどうか。元素から動植物、理性、神の似姿に至るまでが含まれる人間は、何者にも(神や獣にも)なることができると考えられている。あらゆるものに変身(擬態、模倣)しながら、すべてを受諾し、知識や知恵を尽くす、黒の思考だ。これには、神のわざをかすめとる猿、悪魔となる覚悟が必要である。しかし、どんなに書き尽くしても、まだ独創が残っていたかも知れない残りの墨を、「墨壷の猿」が満足そうに飲み干してしまうような、到達不能さがある。

 ところがここに、白と黒の、二つの呪いを封じる、もう一つの思考がある。それが赤の思考だ。赤は魔除けとしての意味を持つとされる。神社の赤い鳥居や、また、赤い顔の猿ぼぼなどは子供への疫病除けの願掛けがこめられた郷土玩具だ。生け贄として捧ぐ貢ぎものは、巫女がつとめられることが多いように、女にも赤の力が働く。古くは、卑弥呼が、化粧をして紅(あか)をさした。世界で最も美しい衣装を身につける民族とされるベトナム北部の花モン族の女は、ビーズや刺繍が緻密に施された、鮮やかな装束をまとう。こうした過剰さ、化粧―あか―は、今日、だれしもが何らかの空虚を埋めるようになされている。ラカンであれば、化粧は男根期の彩りであると言うだろう。

 あかという色は、それを一点さすだけで、その染みが全体を制圧するような、有無を言わさない強さ、精彩さがある。あかですべてを無効化し、宙吊りにすることで、あかはそれ自体が神々しく到達感をもたらすものとして体現しているのだ。ここに、黒と白の魔を封じることとなる。黒と白の失意は計り知れないものである。このようにして、悠々と「あか」をみせて、人工が自然に錦を飾る不屈の魂が、「金魚」というものだろう。

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絵巻エスキース(部分)

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中村 恭子 KYOKO NAKAMURA

HP:http://www7b.biglobe.ne.jp/~fuji_kaika/index.html

参考文献:「珠(たま)を放つ」(青土社『現代思想』6月号フェリックス・ガタリ特集, 2013年5月)

学歴

2010年 東京藝術大学大学院美術研究科美術専攻日本画研究領域 博士課程修了 博士(美術)取得

職歴

2010年4月〜2013年3月 早稲田大学理工学術院電気・情報生命工学科 博士研究員

2012年4月〜 京都造形芸術大学芸術教養教育センター 非常勤講師

2013年10月〜 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 非常勤研究員

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Last-modified: 2019-07-31 (水) 01:06:21 (1725d)