[[アーティスト]]

*所長 [#ud0c6053]
**銅金 裕司 [#a3981f5a]

どうがね ゆうじ (b.1957)
メディアアーティスト。京都造形芸術大学教授。芸術教養教育センターセンター長。学術博士(園芸学、植物生理学)、工学修士(海洋学)、アートミーツケア学会理事。専攻分野は、メディアアート、現代美術、園芸学、植物学、海洋学、物理学。研究者として海洋学を修めた後、園芸学、植物生理学を専攻しつつアーティストに転向して、東京芸術大学でかれこれ10年以上、独自な観点で創発と作品制作の秘密について講じています。あくまでも脱領域的な試み、研究に挑戦しつつも、メディアアートの分野で美術館、ギャラリーなどで作品展示、ワークショップも多数。現代アートの藤幡正樹と現代音楽の藤枝守らと先端芸術的なコラボレート作品も多精力的に展開しています。いっぽう、ラン科植物の園芸的研究でPh.Dを収めるも、ランと昆虫の関係をランと人との関係に見立て、若い頃に愛読したナボコフやルーセルに回帰しつつ、新たな作家活動にも向っています。
 ここ最近は東北支援に向けて、滅びゆく東北のこけし文化の伝統の継承がどうできるか?また、関西、奈良、大和郡山でのこれも滅びゆく金魚文化の伝統の継承をめざしています。

メディアアーティスト、生命と創発をテーマとする作品多数。

私たちがもつべき緒力 “Manuality”

わたしたちが持つべき微細な「緒力」について
鳥たちはどこから
私には長く一緒に暮らしてきた愛すべき老齢なカナリア(Serinus canaria)がいる。彼は歌のマイスターで以前、私の展示作品でネット上で他の鳥たちの師匠方を勤めたことがある。K市で起こった天変地異の前だから、もう10年以上前に家にやって来たことになる。来た時は、雄雌のつがいだったのだが、あるとき、メスは卵が詰まって、カゴに頭をなんどもぶつけて死んでしまった。そして、彼は、やもめになってから、だんだんとぼくら人間たちを恐れなくなった。それから彼は、声をかけると小首を傾げたり、ランの花をしげしげ眺めたり、けっこうユーモラスな仕草をして、健やかで、おとなしく、穏やかな性格で、歳をとっても体の線はいつまでもなめらかで、夏の暑い日には水浴びをしたいと言い、冬の寒い日には早く日光浴は切り上げて暖かい室内にいれろとか、言い出したり、言ってるような気がした。もちろん、口を利くわけではないが、少なからず、彼の意図のおおよそは通じるものなのだ。いま流行の異種間コミュニケーションだ。そうこうしているうちに、なんとなく言わんとするところがわかるような気がして来て、つまりは、気心が知れたようで、およそ一緒にいるときは、互いに親しい友人といるような特別な時間が生まれて、幸福な喜ばしい気分を味わえるようになった。
これは、比喩、あるいは、ある喩えにすぎないが、こうして私が彼から遠く離れ異邦の地の別の遠い空の下にいても、なんとなく彼がすぐ傍にいるような気がして、ときに、彼の思いがむくむくと立ち起こって来る。もしかしたら、ぼくらは、死んだ後も一緒にいるかもしれない、などと思うとうれしくなるものだ。鳥に心があるとかいうと怒られそうな気がするが、断言してもいいが、歴然と彼には「心」はあるのだ。なんといわれようが。そして、その「心」は私の精神の支えにもなっている、と言ってもいいかも知れない。なぜなら、そこには確かな絆のような感覚を感じるから。そんな微妙にあるかないかの心、そのどこかでぼく自身と繋がっていることはすごく素敵なぼくの精神のおおもと、ほんとの基盤だ。家畜など動物と一緒に暮らすの方の中には同意いただけるような気もするが、こんな話を一笑に付する人もいよう。とはいえ、それで、彼に癒してもらっているなどとは私には言えない。そのうち、私は彼を殺してしまうに決まっているからだ。だが、そんなことも、我々にとっては、気にすることでもない。互いに殺し合うこともあるものだろう、くらいは思っている。
年齢を重ねるとともに、その彼の足に問題が生じてくる。老齢化して、年ごとにだんだん、足そのもの、全体が朽ちて溶けてゆくのだ。まるで、体の中に足が没入してゆくようにも見える。その足にはもう指らしきものはなく、肉の塊の突起に爪が生えているといったところだ。しかし、いっぽう爪はどんどん伸びて、止まり木を一周するようにもなってゆき、一周廻って、自分のくるぶしを突き破りそうになったり、止まり木にうまく止まれなくなって、ついには足をすべらせて、床を這いまわったりするようになることもある。
伸びすぎる爪。野生ではこうなる前に死んでしまうのだろう。野生に人がかかわるから、このようなことが起こるのだ。この鳥はもう人の一部なのかも知れない。こうなると、私が伸びた爪を切ってやらないといけない。つまり、捕まえて、押さえつけて、足を突き出させて、繊細で鋭利な刃をもつ爪切りで、長くうねった爪を根元で切り落としてやらねばならない。
爪を切る日は、あたたかく晴れた日で早めにカゴごと戸外にだしてやる。すると早々と「はやく朝飯をよこせ」とか言う。彼をなだめつつ、しばらく庭に放置しておくことにする。すると、シンビジュームの葉などを啄んで遊び始める。このあいだに、部屋の窓を閉めたり、新聞紙を敷いたり、いくつかの用具をそろえたり、ラジオを消して静かにしておかなければならない。そして、もしも飛び立ち、逃げたときのことを考えて室内で爪切りは実行しないといけない。そして彼の朝食の前に、爪切りは済ましてしまいたい。爪を切ったあと、彼が元気に食事をしてくれるだけで、私には深い安堵、安心をもたらせてくれるからだ。
そこで、まずもって、彼を取り押さえなければならない。
カゴにすこしだけ手を入れる。その瞬間、いつもと違う私の手の動きに、一瞬にして身を返してあちこちと止まり木をジャンプしたりする。「それ以上、手を入れてくるのか?」というところであろう。そして、ぼくは、さらに、カゴの中に深く手を差し伸べてゆく。彼も追いつめられ、ただならぬ状況になったことを知る。尋常ならざる状況。当惑してバタバタ暴れたりもする。このときにはぼくは、両手を使う。両手でゆっくりと彼の捕獲をめざさねばならない。暴れるのをやめるまで両手は静止する。時間をかけて、そのままじっとすると、床の隅に飛びおりて、他人行儀な態度、というより、こっちを見て、非常事態にパニックになり怯えているようでもある。半分、口をあけて、激しく呼吸を始める。興奮している。口をパクパクしつつも、ピーピー鳴いたりして、小さな身体を縮こませている。
そして、おもむろに私の方を向いて、その時、じっくりと目を合わせる。彼は言う。「本気なのか」と。私も言う。「そういつものように、ごく本気だ。おだやかに」と。
私はゆっくりと、カゴの隅にいる彼を両手で、すべての指の力を抜いて、まるで、ぼくの両手がかつて翼であったような心持ちで、彼をゆっくり空気のように包み込んで抱きかかえる。そこには、大空を抱えるような気分がみなぎる。
それは、小さくて、なにより薄いセロハンのように軽く、羽はビロウドのようになめらかで、雪のようにほっそりとしていて、そのあまりの華奢さに、私の手の感触から伝わる彼の身体を想像しうる私の感性が、彼のこの世界での存在のあり方対して、もはや、追随してゆけなくなってしまうようでもある。言葉を変えると彼と私のあまりに単位体積当たりの重量が違いすぎるので、私の小さな指の震えでさえ彼にとって圧倒的な力となってしまうであろうことを痛感してしまう。いっぽう、このような儚い存在が空を飛び、時に大陸を渡りあるくものもあるのかと思うと深い圧倒的な感慨にも包まれる。
するとどうだろう。いったん私の両手に包み込まれると、彼はすっかり力を抜いて、自分からふわっと私の掌に被いかぶさり、ついに私に身体を預けてくる。そこでも、私たちは目をそらすことはない。目の光は奥の方で輝くだけである。というところで、ようやくここからが本題である。
私は両手の力を抜くように、しかし、非常に弱い力を10本の手の指にみなぎらせて、彼を包み込むようにしている。はじめに、その状態から非常にゆっくりと手を開いてみることにする。するとなんと彼は、腹を天に向けて両足を中空に突き出して、ゴロリとしたままの状態でいる。ふいに開放されたことで、やや当惑した不安げな面持ちをしている。そして、今度は、私は、わずかに両手を閉じつつ、やさしく包むのではあるが、だんだんと少しずつ力を込めてゆくようにしてみるのである。
ほんの少しずつ、羽からシューシューごくゆっくりと空気が羽から抜けてゆくことがわかる。秩序正しく折り畳まれた少し湿った羽が小さく崩れつつあるのも感じられる。彼は、ふいに虚をつかれたようなきつい表情に変わり、爛れた足で、ぼくの両手を蹴ったりすることもある。目は合わせているが、強いて言えば、やや怒りのようなものを感じる。そして、そこでその私の両手の微細な力をゆるめず、さらに、握る力をだんだんとゆるりと強めてゆく。すると、次第に彼の枯れ枝のような翼の骨を感じることができるようになり、羽の先のほうのやわらかい脈がいくつか壊れつつあることも感じる。彼は、少し体をよじる。ぼくが本気かどうかを確かめるのに、じっとこっちを見る。「これ以上はやめろ」と彼は目でぼくに言う。ぼくははさらにほんの小さな力を両手に分散させてみるが、ついには、その先に彼の死があることが、はっきりわかる。彼の死までのはるかなる距離が容易に計れるようになって、その死が実現することが明瞭に悟ることができるようになる。かれもぼくもその死の前に陶然とうっとりとするムードに包まれる。
この両手のさまざまな向きの微細な緒力のあり方。
これこそが、この世界にとって重要な、人が持ちうる、持つべき感性であると思う。
とはいえ、人は多くの生命を殺戮する存在である。いとも簡単に自分たちの都合でさまざまな生き物を殺し、勝手に忘却している。こうすると、よく言われるような人の「心の癒し」などを世界に求めるべくもなく、精神の安寧なぞありようもないように思えてくる。
いったい誰が癒されるべきなのか、とはよく考えたいところだ。いっぽう、人同士のコミュケーション不全も新聞などで夙に聞くが、ここ最近の人の無軌道、破廉恥ぶりからすれば、もともと人間のコミュニケーション能力などないようにも、私には思えてくる。
これほどに殺戮や自然の破壊、自滅的な戦争を繰り返す生き物もないのに、うわべだけの自然保護だの、自然との共生だの、絶滅危惧種のリスト作りだとか言っても、もはやどうしようもあるまい。環境、世界の破壊など日常茶飯なのに。
このように、私を含めて人は世界に死をもたらす存在である。この宿業をどう解消してゆけるか?はたして、これはあらゆる文化と宗教が人類発祥以降、自問自答してきた問題ではあるのだが。
そうは言っても、私は、一縷の望みはもってゆきたいと思う。かすかに私とカナリアとの間柄のような、卑近であまりに規模は小さいものの、生命が緊密に交感するといっていい瞬間、場合も存在する。
私はこのような人の能力、感性を信じたい。
このようなわけで、マニュアリティの意義が存在する。
人間以外のいろんな生命、彼ら自身らがともに生きる上でも、非常な緊張感や人間からみると理不尽な戦いの顛末や異様な死の不安に包まれることも多い。私自身が生きるときに、細胞レベルでさえ、日一日と生まれては、もう死んでいるはずから、どんどんある部分は死んで行くのは仕方ないことだ。人はこのことを知って、生きて食べるだけさえも、結局、いろいろな生命を殺してしまうわけだが、それが世界のルールでもあるのだけれど、まずは、このルールをしっかり自覚しないといけないように思う。
スーパーやコンビニのパックの豚肉はいったい何なのか?
焼肉屋に群がる人々への獏たる胸騒ぎはどこから来るのか?
そのための効率と経済性を追求したビジネスモデルと精巧な殺戮機械。
ちょっとした快感と欲求が、一方、大衆的な無自覚な殺戮と過剰な死を招き、もうそのような、人にとって取るに足らない生き物が生きて死んでゆく世界への感性も萎えてしまっているような気がする。その感性の欠落は、人が何ごとを行っても、世界は何も答えてくれないし、ましてや、何かしらの示唆さえ与えられても、それを感じることさえできなさそうだ。
自然にアクセスし利用し尽くすための機械やロボットやメディアはどうあればいいのだろう。この問いも、もはやこの世界を人間が支配するときにだけ、機械が人の手足であれば良いという論調が現状だ。
はたしてそれでいいのだろうか?
そんな人の延長としての道具の議論も、もうそろそろ年貢の納め時のような気が私にはしているのだが。  
私が感じる、愛する鳥を両手で包みうる感性は、人が海や山を包みうる感性と等価であろう。
この感性とその自覚こそが、本質的な人間と世界の救済に繋がる可能性を秘めているような気がする。
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