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*研究員&アーティスト [#bc7b6df2]
**郡司ぺギョ キンギョ 油キョ [#x61eddca]
nとしての金魚

郡司ぺギ緒・キンギョ・油キオ

催眠術にどうしてかかるのか、これについて従来二つの説がある。第一の説はフェイク説と呼ばれるものだ。社会的文脈において「やらされ」体験を自発的体験と置き換えてしまう条件が存在し、この条件にはまることで催眠状態に陥ると考える。街頭のアンケートから閉鎖的な室内に連れ込まれ、「あなた買いたいでしょう」と迫られているうちに、そうかもしれないと思って、妙な水や石を買ってしまう。この状況は、まさに或る種の催眠だが、本来の催眠術もこの延長上に理解されるとするのが、フェイク説だ。第二の説はトランス説と呼ばれ、催眠をかけられた当人が、極端なトランス状態−脳の興奮状態に陥り、言われたことを自らしたくてしょうがなくなり、こうして行動を誘導され、催眠状態に陥る、と説明するものだ。

二つの説は、いずれも、「自ら行動すること」と「他人に強制されて行動すること」の両者が区別されることを前提としている。両者が外的条件によって混同されるのがフェイク説、内的条件(個人の頭の中)によって混同されるのがトランス説だ。フェイク説、トランス説の各々で、自ら行動することと、強制されて行動すること、は連続的なスペクトラムを構成する、と考えることもできるだろう。しかし、通常、両者は区別され、或る内的、外的条件によって、両者の中間領域へ被験者は嵌り込み、それこそが催眠だとする説明は、自発的行動と他人による強制を明確に区別することで構成される議論と、何ら変わるものではない。これに対して私は、自ら行動することと、他人からの強制の間に、自明な区別や連続空間上の差異などなく、むしろ両者は表裏一体ではないかと思うのだ。

隣に座っている谷君にやらされました、というとき、他人にやらされた、という感じは明確な気がする。しかしこれを拡張していくとどうなるだろう。友人のグループにやらされた。社会にやらされた。宇宙にやらされた。もはや何にやらされたか、わからない「やらされた」は、自分でやったことと区別がつかない。これは、「本当は自分がやったのであり、これを隠蔽するため、不定なものに責任を押し付けている」、というのとは逆の事態だ。何かにやらされたことは確かだが、その何かを具体的に指定できず、その何かが本質的に不定なものとなるときこそ、「自ら」が発動するのではないか、と述べているのだ。いわば自発性は、空洞化した強制においてのみ成立する。自ら行動するとは、強制の、或る種の極限として成立するのだ。

それは自立した一個のあなたにおいて成立するのではなく、もっと原初的な場所、あなたが一個の人格として絶えず自らを生成・更新する場所で成立しているに違いない。あなたの脳内で明確な意図を持って行動しようとする脳の部位は、それに先行する他の部位の命令におののきながらも、脳内先行者を指定できない。原因を指定することが循環し、空洞化するとき、そこに自発性が発動する。こうしてあなたは、自ら行動した、と考えるに至るのだ。

空虚なものによる指定は、指定の否認を意味する。1,2,3という自然数を選んでみる。具体的な2や197を選ぶことは、確かに自然数を一つ選んだ気がする。では、任意の自然数nを選ぶという場合はどうか。それは、具体的な何かを選ぶかにみえて、全てを選んでいる。全てを選ぶことで、一個の数を選ぶという前提自体を宙吊りにしてしまう。ここに見出されるのは、具体的な5ではなく2を選ぶ、という5の否定とは次元の異なる、否認なのである。nを選ぶということは、具体的な数字を選ぶという操作と同じ、何かを選ぶという体裁をとりながら、一個の数字の選択を否認し、一個の数字の選択を空洞化するわけだ。具体的な谷君による強制が、「誰か」による強制として空洞化され、自発性が開設されるとは、まさに自然数を一つ選択するときnを選択し、空洞化することをモデルとする。

金魚はいうまでもなく、我々が愛でる為に品種改良を重ねて作りだした、フナの変異体である。では金魚は人工物か、自然なのか。こういった議論の罠は、人工と自然の区別を無定見に受け入れるところにある。人工と自然の間に、我々は自発と他者の強制の表裏一体性、具体的な自然数と任意の自然数nの関係を見出すことになる。膨大な時間と空間の産物である人工は、もはや人工であることを指定できない。任意の自然数nであるとろの金魚は、人工と自然の対立を笑い飛ばし、悠々と泳ぎわたる。

私は、新たな自然に対する解釈、自然の再定義を主張しているのだろうか。そうではない。自然は常に、既に定常的に維持されていた環境を覆すことで新たな環境へと開かれ、特定の過去、特定の環境条件を指定できないことで初めて獲得される概念である。進化の過程の一つ一つに、この意味での自然、環境を指定することの否認・空洞化としての自然の成り行きが、連綿と流れている。閉じた定常的な「それまでの」環境は、閉じた人工的な環境の一つのバージョンに過ぎない。だから、自然とは、nとして指定される環境として、はじめて見出されるのである。

わたしが生まれ育った街は、水路と沼沢地が広がり、金魚の養魚場もあって、小学生の時分には金魚の飼育が大流行りだった。兄が育てたというランチュウや水胞眼、東錦を見せてもらうため、友達の庭に置いてある大きな水槽を覗き込んだり、縁日でとった和金やヒブナを、庭にしつらえた甕や池に放ったものだ。わたしは、高校のころまで、大雨のあと水の引いた川に入り、三角網で、7〜80cmの鯉やナマズ、雷魚をとっては、しばらく飼っていた。また用水路に四つ手をしかけては、泥鰌や鮒をとってはこれを飼っていた(そんなことは、当時の小学生でもしなかった。雨上がりの川で、泥まみれになって鯉をとっていると、通勤帰りの大人や近所の老人が集まっては、わたしの魚採りを眺めていた)。魚は、採る時も、飼うときも、眺めるのは常に上からであり、その背中を眺めることこそ、魚を実感させるものだった。横から眺める魚は、魚屋に並んだ魚を見る気がしたものだ。

甕には、金魚草が繁茂し、水面にはホテイアオイも浮かんでいた。甕の縁から覗きこんだ、ほの暗い水底には、黒々とした鮒が佇む。ふとその水底の最も深いところから、緋色の物体が踊りでる。それは、底にいながら、底に存在する個物ではなく、個物でありながら上部から俯瞰するような存在として、見ている私の方を照らし出した。まさにそれは、全体の風景を俯瞰しながら、個体として見られることを宙吊りにするnだったのである。


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